ちーちゃんの冥福を。

 ちーちゃんが家に来たのは、いつだったか。詳しいことは、思い出せない。ただ、家に帰ったら、ちーちゃんがいた。
 既に、成犬であり、年齢不詳。病気持ちだった。
 そう、当時は、パニックや、酷い興奮状態になると、痙攣を起し、失禁した後、起き上がり普段より早い速度で何処へともなく走っていっていた。その性で一度、迷子になり、人懐っこい正確の故にその家で大人しく迎えにくるのを待っていた。ということもあった。
 そして、俺には生理の時にしかなつかないという大変可愛らしい犬だった。呼んでもこない、散歩にさそっても腰をあげない、餌をあげても、餌だけとって消えていく。とっても愛らしい奴だった。
 最近では、肝臓や、心臓が悪いことも解ったりして、薬代もバカにならない犬だった。
 しかし、人懐っこい上に、芸もなく、吠えることもしないちーちゃんを家族の誰もが愛していた。手間のかかる子ほど可愛らしいとでもいうのか、単なる情なのか、そんなことで区別されたくはないというほど誰もがちーちゃんを愛していた。
 もちろん、俺もちーちゃんが好きで、愛している。しかし、ちーちゃんは俺のことを好きではなかったようだ。
 家に帰ってきたときも、一応、尻尾を振って迎えにきてくれることもあるのだが、足の匂いをかいで、俺だと解るとすぐに他の家族の下へと帰って行く。
 たまに膝の上に乗ってくれるときは、他の家族が誰も相手にしてくれなかった時と相場は決まっていた。
 それでも、俺はかまいはしなかった。ちーちゃんがなついてくれなくとも、俺がちーちゃんになついていて、尻尾をふって『かまって、かまって。』と言う事で満足していた。
 そして昨日。
 夕方までいつもと変わったところは見えなかった。しいて言えば最近寝ていることが多いかなくらいのものだった。もう老犬だししかたないだろう。そんな程度だったのだが、散歩から帰って来たら様子が明らかに違っていた。
 いつもなら、リードを外してもいないのに、家にいる他の家族のもとへ走っていき、匂いをかいだあと、リードを外してもらって、水を飲む。
 ところが、その日は、散歩から帰ってくると、玄関で座り込み、遠くを見つめていた。
 餌を見せてもとりあわず、ただ、眼が虚ろで、焦点が合っていなかった。
 様子がおかしい。誰もがそう気づいた。
 しかし、暫くすると、帰ってきた他の家族を迎えるその姿は、いつものそれとそう変わった様子は無い。ちと疲れているのか。熱でもあるのか。そう思いはじめていた。
 ところが、それから、眼に見えてチカラがなくなっているのが解った。水を飲みにあるいていても、疲れ果て、途中でたちどまってしまう。飲み終えた後も、低位置まで戻るちからはない。
 夜になり、息が荒かった。珍しく俺の部屋にやってきて、寝ていた。今までは絶対ありえない光景に、どうしたのかとも思ったが、ちーちゃんが俺の部屋にいるということが嬉しくもあった。
 午前三時頃。誰かの咳き込み、苦しむその音で眼が覚めた。ちーちゃんだった。後でしったのだが、その時に吐血していた。
 朝、母ちゃんが病院へ連れて行った。酸素をあたえなければ、すぐにチアノーゼがでて、一日中、酸素を与えられていたちーちゃんは、今日が峠だった。
 夜の十時。病院から連絡が有り、母ちゃんと姉ちゃんが、ちーちゃんを迎えに出かけた。
 数十分後、何を華なしているのか解らないほど泣きながら電話をかけてきた姉ちゃんから、「ちーちゃん、駄目やった」と聞かされた。
 日記でも何度も書いたと思うが、俺は死が怖い、死を直視したくない、死から眼を逸らすことが多い。今回も同じだった。
 それを聞いても、特に何かこみ上げてくるとかなかった。こんな時はどうしたら良いのかっていうことを考えていた。
 そして、あの娘に電話をした。ちーちゃんのことを伝えたとたん、お互いに、明らかに様子が変わった。しかし、電話ごしに聞こえた、向こうの雑音に萎えた。
 その後すぐに、ちーちゃんが帰ってきた。煙草を吸っていた俺は、灰皿に煙草の火を押し付けながら、顔を上げることに覚悟を決めた。
 毛布につつまれたちーちゃんを姉が涙目で抱いていた。姉の目をみることができないまま、ちーちゃんの身体を撫でた。
 まだ暖かかったその身体は単に寝ているように思えた。何時もは嫌がる、鼻先や、口を触っても何もリアクションが無い。瞼が半分空いた眼と眼が合った刹那、慟哭がこみ上げてきて、たまらず自分の部屋に戻った。
 部屋に続く階段を上る一段一段が慟哭が段々こみ上げてくるのと比例し、部屋の戸を閉めたと同時に、涙が溢れこぼれ落ちた。ベットにうつ伏せ、毛布を被り、死の恐怖よりも、ちーちゃんが居なくなったという現実でもない、別の何かが悲しいのか、切ないのか、どういう感情かも解らない、言葉にならないその感情が涙を出させた。
 左側の眼鏡に溜まった涙が暖かく、気持ち悪くて身体を起した。それから、この文章を書き始めた。書いては止まり、止まっては書くこの文章は、思ったことをそのまま書き綴り、消して書き直さないことにした。
 書くのを止めると、ちーちゃんの死と向き合わねばならないことが怖い。それが素直な気持ち。
 いつもは嫌がる煙草の煙を思いっきり吐きつけて起きなければ、俺はきっとまた泣いてしまうだろう。